misc-net 家主Hanaの日記

ベルギー生活に役立つ情報だったりそうでもなかったり。たまにガレージセール連絡帳として活用。

AllaとMaxim from Ukraine

ウクライナ「友達がいるのさ」。Hanaです。泣

 

友達はAllaとMaximです。

 

 

中国・大連で会った

ウクライナ人のAllaとMaximに出会ったのは、中国・大連の遼寧師範大学。

30年くらい前の話。

 

あるとき、Hana実家がある市の広報紙を読んでいて、中国への留学案内発見。

「語学だけでなく文化体験も」というコンセプト。

大人向けのゆる~い「遊学」的な留学とのこと。

3か月も中国に行っちゃうんだから、時間的に自由な人限定。

必然的に、子育て終わった主婦かリタイアした老人か…。

実際、子供のいない30代と40代の主婦の方、子育て終わった50代の陶芸家の女性、幼少のころに大連に住んでいた70代の男性、というメンバーでした。

20代後半のHanaが参加者最年少だった。笑

このころのHanaは、派遣のツアコンと言ういたって自由な身。

断らなければいくらでもツアーが入ったけど、断るのも自由。

そのかわり働かない期間はもちろん無給で何の保障もない…。泣

そんなヤクザな日雇い労働者だったので、中国行くのも自由だった。

自由万歳。

その留学先である大連の遼寧師範大学には、同じ社会主義国家として友好国(だったかどうか知らないけど)である旧ソビエト連邦から沢山の留学生が来ていて、ウクライナ人のAllaとMaximはその中の二人だった。

 

旧ソ連から国費留学生として

会った時点でAllaとMaximが何年目だったのか覚えてないけど、国費留学生として選ばれて留学していたわけなので、優秀な二人だったに違いない。

もう中国語はペラペラだった。

Hanaはと言うと、添乗で何度か中国には来ていたものの、ツアーには常に完璧な日本語を操る中国人ガイドさんが全行程同行してくれていたので、中国語を話す必要も機会も全く無く、中国語の知識ゼロ状態。

でも、旧ソ連からの留学生たちは、英語もペラペラだった(さすがエリート)ので、Hanaには英語で話しかけてくれてた。

 

 

ソ連崩壊…

旧ソ連からの留学生たちは、お国からたっぷり生活費を受け取っていたとかで、まぁまぁ優雅な学生生活だったらしい。

しかーし!

1991年12月にソビエト連邦崩壊!

ウクライナは独立し、AllaとMaximはウクライナから学費と生活費を送ってもらうことになるはずだった。

しかし、引継ぎがうまくいかなかったのか資金難だったのか面倒だったのか、国からの送金は途絶え、帰国費用も無く、いつ帰れるか分からない状況だった。

ロシアからの留学生は引き続き仕送りがあったようなので、AllaとMaxim だけ切り離されたようでお気の毒だった。

生活費は中国だか大学だかから少し出てたと言っていたような気がするけど、実際、どうだったのか…。

なんか聞けなかった。

今みたいにネットも無いし携帯も無いし、SNSも何も無い時代で、遠く離れたウクライナとのやり取りも大変だっただに違いない。

 

 

ロシア人もウクライナ人もめちゃいい人だった!

30年前の中国は、世界第2位という経済大国に成長した現在からは想像できないくらい貧しく、映像や写真で見る「戦後の日本」に近いものがあったかもしれない。

物価はめちゃ安かったけど、入手困難なものもいっぱいあった。

特に食品。

お米、小麦粉、豚肉、卵、砂糖、は配給だった。

市場で買えないことも無かったし、外国人専用のスーパーマーケットのようなものがあって、そこに行けばめったに見ることのない牛乳やバターなんかも売ってたけど、驚くほど高価だった。

そんな中、料理が得意なAllaは、少ない材料を工夫して、ピロシキを作ったり、ケーキのようなものを作ったり、留学生たちの食生活に彩りを添えてくれてた。

Maximは、1986年に起きた「チェルノブイリ原子力発電所事故」の際、チェルノブイリにいたそうで、自分は放射能を浴びている可能性があると言ってた。

そんな過去もあったり、いつ故郷に帰れるか分からないという状況とか、平坦じゃない人生なのに、Maximはいつも冗談ばかり言って明るかった。

「なんでバナナが好きか分かった。皮をむくだけで食べられるから。」

などとばかばかしいことを言っていたのを覚えている。

日本からの留学生も沢山いたけど、日本人ももちろんロシア人とウクライナ人もみんな仲良しだった。

不便な中国の生活で、いろいろ協力しているうちに連帯意識が芽生えるのかな。

または、中国に対する不満を共有しているうちに仲間意識が芽生えるのかも。笑

ばっちいトイレとか、列に並ばない群衆とか、いろいろなものに存在する外国人価格のこととか。

とにかく、ロシア人もウクライナ人もみんな親切で明るくて、いい印象しかない。

 

 

AllaもMaximも帰国

Hanaは3ヶ月だけその留学生のお仲間に混ぜてもらい、その後中国を旅行して香港経由で帰国。

しばらくしてAllaとMaximも無事にウクライナに帰国できたとMaximからの手紙で知った。

列車で中国とロシアの国境近くまで行き、バスで国境を渡り、また列車に乗り換えて…

と大変な思いをしたとか。

その後も、年に1-2回の手紙のやり取りが続いたけど、Hanaが結婚して香港に引っ越し、その後日本に戻り出産、そしてベルギーへ…。

とあちこち行っている間に疎遠になってしまった。

 

 

Maximからメッセージ!

2年前の2月、突然Messenger にメッセージが!

20年ぶりくらい?!

f:id:hana2008:20220318203252j:image

「もしかして1992年に大連行った?」

 

おーーー、Maximやーーーー!

MaximがフェイスブックでHanaを見つけてくれた。

ザッカーバーグさんありがとう。

その後Messengerの電話で会話もした。

Maximの話では、Allaはロシアにいるらしい。

今、どうしているやろ…。

 

 

古都キエフ

Allaとは中国から帰った直後に何度か手紙のやり取りをしたっきり。

出身地であるキエフを「美しい街」と自慢してた。

送ってくれたポストカードの写真は緑の玉ねぎ型の屋根を持つ寺院だった。

今、検索した感じでは「聖アンドリーイ教会」の写真だったのだと思う。

美しい。

この教会は、まだ形をとどめているのかな…。泣

今回のキエフ侵攻のニュースの中で、キエフ「聖ソフィア大聖堂」を「世界遺産」と紹介していた記事を読み、Allaが送ってくれたポストカードもてっきりその世界遺産である「聖ソフィア大聖堂」だと思い込んでいたけど、写真で見る限り「聖アンドリーイ教会」に違いないと思う。

緑色のドーム型屋根と塔が印象的だった。

Hanaも友達に送るなら「聖アンドリーイ教会」のポストカードにすると思う。

30年近く前に受け取ったポストカードの写真なのに覚えてるHanaもすごいでしょ。笑

一時帰国したら確認しよ。

ウィキペディアのキエフの項にも、「市内にはキエフ大公国時代の建築物が多数残されている」と書いてある。

どのくらい残っているのかな…。

 

 

Maximからメッセージ

今月初め、大丈夫?というメッセージを送ったら、こんな返信が。

f:id:hana2008:20220318203338j:image

「今のところ安全だけどあとどのくらいだろ…。狂ったPuが原子爆弾持ってるし、ウクライナ原発二基も奪われたし。」

って言いたいんだと思う。(たぶん)

nuclear craftworkってナニ?

 

そして、一昨日には、こんなメッセージ。

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「ベルギーも難民受け入れてくれてるよね。(「ありがとう」って言いたいんだと思う)ほとんどはポーランド(ありがたい)。日本も受け入れてくれてるね(ありがとう)。僕は大丈夫!」

もっとMaxim 本人の具体的な状況とかキエフの状況が知りたいのに…。

難民の受け入れ先の話って…。泣

なんかMaxim らしい…のかなぁ…。

 

と言う個人的な感情もあり何かの形でウクライナを支援したいです。

昨日の記事をご参考に物資や義援金のご寄付よろしくお願いいたします。

 

misc-net.hatenablog.com

 

 

 

 

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